(( 既に 殿谷さんから、かなり詳しく解説を頂いて居りますが・・・、 前回に続いて、阿倍の仲麻呂の故事を振り返って見たいと思います ))
先ず、上の写真 ( 「阿倍仲麻呂記念碑」 )の説明から・・・
これは、西安の街の東側、西安駅からほど近い処に在る「興慶公園(玄宗皇帝が皇太子時代を過ごした「興慶宮址」)」の一郭に建てられて居ました ・・・ (今も有ると思いますが)
次いで、李白の詩に触れて見ます・・・
題は 『晁卿衡を哭す』
(( 晁衡(ちょうこう 仲麻呂の中国名)、卿は尊称、「哭」は声を上げて泣くこと ))
日本の晁卿 帝都を辞し
征帆一片 蓬壺(ほうこ 伝説上の仙人の島)を堯る(めぐる 正しくはシンニュウが付く)
名月帰らず 碧海に沈み
白雲愁色 蒼梧(そうご 地名・南支の海岸)に満つ
以上が全文ですが、実に味わい深いものが有りますね
( なお、此の他に、李白と共に友誼を結んで居た詩人 王維 にも これより長い送別の詩が有ります )
・・・ 仲麻呂が長安を訪れた時、齢 十六歳 (小生らが江田島に赴いた時と同じ) ・・・
それから三十六年にして帰国の運びとはなったが、其の船が暴風に遭難し、この詩を生む事態となったが、奇しくも生還し、結局、其の侭唐に留まり、七十歳(一説には七十三歳)で没したと云う
(( 仲麻呂が赴く百年ほど前、607年に聖徳太子の国書が隋に送られた事と併せて、今の吾々は自戒・自訓すべき事の多きを思うべきだと思うもので有ります ))