昨27日 故斎藤 肇君の葬儀は、 四十九日の供養の終わる此の日を卜(ぼく)して ・・・
「納骨の式」 が取り行われました ( 東京都 高尾の霊園にて )
クラスから 中村慶典、松井 元一、是枝 益彦、小宮山 玄二 の4名が参列して送りました
写真は 豊子未亡人を中にして居ります
なお、 故人の想い出 として、こんな事が紹介されました
(1) 遺品の片付けをして居たら、大きな写真が出て来まして、添えられていた書状によれば、
其れは、彼が属していた「写真家協会」の『第12回 四季の彩り』展に 『煌めき(きらめき)』
と題して出品・入選した作品で、 書面には ・・・
1945年(昭和20年)3月、旧海軍兵学校を卒業した私は特殊潜航艇という小型潜水艦の
乗組員を命ぜられ米海軍の本土上陸作戦を迎撃すべき任務に就きました。駿河湾、相模湾
の特攻基地にあっての日夜の訓練、索敵行動、そんな或る日 突如潜望鏡のレンズに
飛びこんで来た伊豆の夕景に私は息を飲みました。
其の時の感動は 暫し 戦争を忘れさせる 一瞬でした。
其れから約半世紀の後、当時20歳だった若者の心を捕えた光景が今日の私の生甲斐を
支える原点となっています。
此の写真は其の時の感動を再度求めて撮りまくった伊豆半島の一枚です ・・・ ・・・
と記されて居りまして、 其れを小さくして此処に持ち寄りましたので、ご覧頂きたい。 と
(2) 少年時代の故人は、根っからの「野球少年」で、中学では甲子園を目指して、進学も見送り、
兵学校へは卒業してから進んだ云う経歴を持ち、戦後再開第1回の甲子園大会の折には、
母校 「東京高師 付属中学」の野球部コーチを引き受け、 ”準優勝” までさせたと云う
経歴の持ち主で ・・・ 甲子園には しばしば足を運び、昭和62年8月には、朝日新聞の
インタビュウを受け、TVに顔を残して居たとして・・・ 其の辺りの場面をDVDに写して
配られました ・・・ 其の中の 一場面を 次に掲げて置きます ・・・