60年前の今日今頃(1800)、「総員前甲板整列!急ゲ!」の号令が下り戦艦大和前甲板にて伊藤長官より沖縄出撃の命令と訓示を受けている。
大和42名矢矧24名の候補生は尽忠報国の一番乗りの好機に恵まれながら、沖縄水上特攻出撃直前にその念願も叶わず退艦を余儀なくされた。その直後否その後においても候補生の間では「大和矢矧の退艦は江田島の前田教官が海軍省に出向いて懇願された為らしい」と云う話が伝わっていた。この件は江鷹誌(H.14.12.1)第280号の冒頭に田村 章君も前田教官の思い出の一端として述べている通り航空班の彼の耳にも入っている有名な事柄でもある。前田教官のご気質からして真実と信じ感激感謝し現在に至っている。
前田教官が郷里鹿児島に帰郷安住され、度々お宅にお邪魔する様になり且つ候補生大和退艦の批判三論の波も略静まった昭和の50年頃だったと思う。教官にその真実を確かめておきたいと思い、お尋ねしたことがある。
教官は慌てたような様子で「いやぁ、僕はそんなおこがましいことはしてないよ」と、海軍省に出向いて相談したと云う事は否定された。続き様に教官は「実は沖縄出撃の前日だったかな、伊藤長官と有賀艦長が水上機で江田内に着水、兵学校に沖縄出撃の挨拶にみえて、その時私も校長室に呼ばれてね、長官は私に逢うや否や『前田君、新着任の候補生は降ろそうと思うのだが、君は如何思うかね?』と訊かれたので、僕は即座に『長官、是非そうさせて下さい。降ろして下さい。彼等には大事な任務が残されて居るのです……』と言うと、長官は『前田君、それ以上は言うな、判っとる判っとる。そうしよう』と仰ったので、『是非そうさせて下さい、お願いします。』と改めてお願いはしましたがね。」とその時の模様を話して下さいましたが、教官のお言葉の端々にも納得し難い処もあって、教官のご気質等考えると未だ理解しがたい点もあり教官亡き今にしては再確認の術もなく唯々迷宮入りの態である。
それにしても沖縄水上特攻出撃直前に兵学校卒業早々の少尉候補生多数を退艦させた事は海軍内部においても一般社会でも色々と波紋を醸したことは避けられない事実である。