去る四月十四日 期友米倉國輔君が逝くなった。
小生は御本人の生前からの依頼により弔辞を捧げる大役を仰せつかり四月二十四日の
眞に立派な同氏の告別式に七十四期の期友として弔辞を捧げた。
今朝、夢の中で故米倉氏より小生からの弔辞をクラスに披露してもらないかと依頼された。
是枝氏にも相談し、ここに全文を紹介させて頂きます。
弔辞
謹んで故米倉國輔君の御霊前にお別れの御挨拶を申し上げます。
米倉さん、君の訃報に接した時、やっぱり逝ってしまったのかと深い悲しみと君を失った虚脱感で胸一杯になりました。
去る二月七日久し振りに御一緒し、神田でアンコウ鍋をご馳走になった時、急に改まって「松成、弔辞は君に御願いすることにしたから宜しく」と一方的に言われ、あまりに突然のことなので、かなり狼狽しましたが、しかしここ数年、君の体調があまりすぐれず、君の好きなゴルフも御一緒出来なかったのを承知していたので、私なりに覚悟はしておりました。しかしどんなに覚悟をしていても、君を失ったことが抑え様がなく、とても悲しかった。
米倉さん、君と私は昭和十七年十二月一日栄えある海軍兵学校第七十四期生として入校致しましたが、時恰もガダルカナル攻防戦に、日本海軍が死力を盡して戦っている最中でありました。爾来二年有半に亘り護国の任を誰か負うの気概と忠誠心を以て猛訓練にいそしみました。昭和十九年十二月我々は航空班として江田島に別れをつげ、霞ヶ浦海軍航空隊第四十三期飛行学生として、搭乗員の訓練にいそしみ、終戦に至る迄お互い切磋琢磨したことが、昨日のことの様に脳裏によみがえります。当時は、既に戦運は傾き、見透しの暗い日々でしたが、いつも笑みを浮かべ、穏やかで、泣き言を言わない君に、どんなに心をいやされたか、そして年令以上に大人であった君は、当然のこと乍らクラス全員から厚く信頼されておりました。
米倉さん、戦後お互いに実業の社会に入ってからは、君は三井物産の幹部として、カナダ・オーストラリア等海外の生活が長く、お互いすれ違いが多く、中々落ち着いてお会いできませんでしたが、君が東京に腰を落ち着けられてからは、ゴルフ等で御一緒に打ち興ずることが多々あり、あのスリムな体にもかかわらず大きくしなるドライバーでいつも打ち負かされ、一度も勝った記憶がございませんでした。これなどもチャランポランで力まかせに打つ小生と異なり、柔軟な体で「負けてたまるか」のネーヴィ・スピリットを遺憾なく発揮され、ここでも大きくリードされたという想いがあります。
米倉さん、昨年十一月の海軍兵学校七十四期の最後の江田島での大会を車椅子で奥さん共々参加した君を見て、本当にただただ嬉しく、もう何も言えぬ程感激致しました。君も心から喜んでいたことが忘れられません。
米倉さん、四月十五日君のご遺体に御挨拶した時、君は安らかに眠っていたが、小生の声に反応して、目を開けて「おい松成よく来てくれたなあ」と起き上がってくる様な真に迫る雰囲気が伝わってきて、こんなことがあるのだと深い感動を憶えました。
米倉さん、悲しみにまかせた老人の独り言はこの位にして、あつい心からのお別れを申し上げることに致します。米倉さん、我々の日本海軍は永遠です。私達もいずれそのうち、三々五々君を訪ねて行きます。
米倉さん、どうか安らかにお眠り下さい。さようなら。
平成十八年四月二十四日
海軍兵学校第七十四期 松成 博茂