(( 「天守閣」の南東には ・・・ 歴代の肥後藩主の居所・接客所 ・・・
「本丸御殿」 が 有り ・・・ 「西南の役」直前に 焼失したのでしたが ・・・ ))
( 熊本城の 完全復元への取り組みの一端として ・・・
其の 「大広間」が ・・・ 最近(平成20年 春) 完成されて 居りました ・・・ )
其処への アプローチは ・・・ 一端 地表から下りて ・・・ 石垣の裾を巡って訪ねる ・・・
他に 例を見ない と 云う物でして ・・・
「闇り通路(くらがり つうろ)」 と 名付けられて 居りました ・・・
「大広間」 は ・・・ 手前(玄関口) から ・・・
「鶴の間」、「梅の間」、「桜の間」、「桐の間」 と ・・・ 四つの間が連なり ・・・
一番奥は 藩主が坐したと思われる ・・・ 「若松の間」 ・・・
「大広間」 の 縁側を通って 奥へと 進み ・・・
「若松の間」 の 横手から見た 其の奥には ・・・
さらに 「昭君の間」 が 設けられて居りました ・・・
此の「昭君の間」 は ・・・ 一きわ 変った造りで ・・・
壁には ・・・ ”前漢 悲劇の女性” 『王昭君』 の障壁画 が飾られて居り ・・・
其処から ・・・ 「昭君の間」 と呼ばれるのですが ・・・
是には ・・・ こんな話を聞きました ・・・
此処の創建者である 加藤清正 は ・・・
豊臣 秀吉 と同郷の出で ・・・ 一番の家臣として ・・・
秀吉 亡き跡の 秀頼 を ・・・ 此処に迎えて ・・・ 豊臣家 の 再興を図るべく ・・・
”未来の 将軍の間” を もじって 『ショウクン(昭君)の間』 と名付けた とか ・・・
( 縁もゆかり も 考えられない 「異国の説話の主人公」 の名が付けられて居る のは ・・・
巧みに 音訓だけを 利用したもの として ・・・
誠に 説得力の有る話に覚えるのですが ・・・ )