野暮用にて遅くなり申したが御寛容の程。さて桂浜よりの四国山脈越えも見事な隧道にて平地を行くが如く、一時程にて瀬戸内に入り候。ところがでござる。駕籠を進めるほどに身が縛られ何かに引かれる思いで、3時過ぎ楢本神社境内の神風特攻隊敷島隊五軍神祀碑前に降り立ちたる時は正にコチコチの態にて候。漸く気を取り直し深く頭を垂れお祈りせんとするも言葉にならず、唯腹の底より「申し訳なく候」と2度3度呟くのみで御座った。碑の後ろに回りて硬直は収まり申したが、関中佐を囲むが如き4機の碑の立錐を目の当たりに致しては涙がどっと溢れ、暫し瞑目しその場に立ち尽くし居り候。その後 碑建立の宮司石川梅蔵氏のご子息夫人より神風特攻記念館の案内等頂き申したが割愛仕る。神風特攻隊発祥の経緯・敷島隊戦闘経過については2つの碑文を参照されたく候。
関行男中佐慰霊碑及び五軍神祀碑
同上 背面(各機の碑石は250k爆弾同形・等重量)
同上にある 関中佐慰霊碑撰文(昭和50/3/21)
昭和49/5/7 フィリピン人 ダニエル H デイゾン氏 カミカゼ発進のマバラカット飛行場跡に 神風特攻隊全戦没者の碑を除幕(昭和52-54 石川宮司現地で慰霊祭)
関行男中佐は一人子にて西条中学より兵学校70期に入校二号時尊父を亡くされ候。新婚5ヶ月の妻と御母堂サカエ様を残し散華致された次第。戦後の様変わりと寄る辺なき御母堂は困窮致され、草もちの手作り販売で糊口を凌がれ、最後は中学の用務員室にて昭和28年「行男の墓を」最後の言葉にて寂しく路行かれ候。楢本神社の宮司石川梅蔵氏は谷口校長時代兵学校の教員次いで教官を歴任致され、乞われて故郷の宮司に就かれ居り候。幼児より行男少年を熟知する宮司は早期より慰霊碑の建立を企図されるも時代が許さず、異国のフィリピンにて慰霊碑除幕の報を得て勇躍彼の地に赴かれ候。かくて機は熟し50/3/21関中佐の慰霊碑が盛大に除幕され申した。ところが中佐だから慰霊碑かの風評もありて、一部遺族の合祀反対をも解消いたすべく3年間にわたりマバラカットにて慰霊祭を務め、昭和56/10/25五軍神祀碑建立除幕の運びと相成り、時の海自呉総監小室祥悦兄が音楽隊を伴い除幕に花を添え申した。爾来毎年同日盛大に慰霊祭が挙行され居り候。
若き特攻の魁五軍神の心情に思いを致し、感謝と哀悼を捧げ、我が及ばざリし余生を顧みつ、暮れなずむ伊予路を来島へと駕籠を急がせ候。紙面制約上舌足らずはご勘弁の程。