昭和20年8月15日 に 係わる「想い出」 は、すでに 書き尽くしたので、今日は 最近感じた事を書いて見ます。
かって、「戦争を知らない子供たち」 と云う歌を よく 聞きましたが。 是は、「戦争を体験して居ない・・・」 と云う意味で、「戦争の本質を知らない・・・」 と云った 深み は無かった様に思います。
処で、「戦争体験」 として語られる殆どは 「其の局部に於ける体験」 で有りまして、「敗戦国の其れ」 は 殆どが ”悲惨” なもので、今や TVなどで盛んに報道され、是を見た人は 誰しも「戦争」 を ”嫌悪” または ”忌避”する気持ちになって居るだろうと思います。
此の事は、 人々の「貴重な体験」を 眠らせて仕舞う事なく、其れを 「平和の維持」 に繋げたい と云う意図で有りましょう。
しかし、こうして、「戦争」 を ”嫌悪” していれば、「平和」 が齎されると云うものでは無く、「平和の維持」 は もっと ”積極的なもの” だと思うのです。
と 云う 訳は、「戦争」 とは 「国家間」 に於いて、
”利害が対立して、結論が出ない 時” や、或いは、
”一方が 相手の存在を 無視した 時” などに、
”武力 を 以って、相手国を屈服しよう” として始められるもので、
其れを回避する為には、
単に 其れを ”忌避” し、”「武力の放棄」 を宣言する” だけでは無く、
先ず ”「他国との併存」 を念頭にして”、
”「自国の存在」 を明確に維持しようとする 「積極的な姿勢」” が 必要な事は 明白で有りましょう。
また、「戦争」 は 「国家権力の発動」 として行われる事で有り、 一旦 宣告して始められれば、其の先は、”民間では禁じられて居る「殺人行為」” を含めて、互いに 持てる力の限りを尽くして 闘うことになるので、「惨劇」 が付き纏う事は 避け難い帰結で有りましょう。 従って、”国民が どれだけ 其れに耐えられるか” も、「国力の一部」 と見て置かないと、”「独立国」として 存在し得ない” 様な思いが浮かびました。