昨年の「談話室」7月、9月号の「電気ショックから生還」の記事で、生還できたのは発症が入院中で、深夜・早朝でなかったこと等の僥倖を挙げましたが、我が身の僥倖をあげつらう前に訪問治療医、
心・腎主治医の対応、治療に感謝すべきであったと反省しきりであります。特に今回の「心停止」以降のトリオ治療に感謝しております。因みに、訪問医は心主治医と師弟関係で、また腎主治医の
心臓カテーテル手術の担当医という稀有なトリオ関係にあります。
1月5日、訪問医に往診を依頼してそのまま同医の手配による救急車へ。途中、病院、主治医に連絡する同医の電話の声を聞きなが
ら感謝のうちに意識朦朧になりました。
ICUの次の病室は、患者仲間では「開かずの扉」。看護師が「重病室」という ××号室。入り口で思わず観念して右手の片手拝みをし
て入りました。入り口には常時監視用の看護師のデスクがあり、男女同室で、殆どが流動食・吸痰患者。
症状の経過は省略して、
(左)は節分の夕食に添えられたメモで、此の頃から食欲も快復してきた。
主治医の一人から「うちでも我がままだったか?」。「しかし、快復力には驚いた」の講評・訓示を家内が頂戴した。
無意識のうちに主治医に暴言、傍若無人の振舞いがあったのか
気になって二三の看護師に尋ねたが「心臓が止まっていた。詳しいことは分からない」と同様の返事であった。
家内は同郷で、キリスト教家庭の四男四女の末っ子。小生は
神道で一男二女。昭和23年に65期の橋本亘牧師の洗礼を受け、昭和26年に同牧師の司式で結婚。
前回の投稿で、病院ならではの稀有な体験」として、入院中の3夜
連続で左隣の患者3人が昇天したことにふれたが、そのうちの1人は前日迄吸痰に苦しんでいて、当日は静かな寝息だった。遺族のすすり泣きが暫らく続いたが、安らかな昇天であった。あとの2人は
遺族の気配はなかったが深更の孤独な静かな昇天であった。
名前も性別も分からない隣人の死に接して、人はみな最後は平安のうちに召されるものだと妙に納得しました。照明もつけずに、
無言で手馴れた(そう感じた)病院スタッフの手で、開かずの扉から運ばれて行くのを見送って、これからの残された我が人生も平安で恵まれたものでありますように祈りました。
▼物資欠乏時代で教会員手製の結婚式次第です
(つい、筆が自分史的散文の畑に迷いこみましたが、ご海容ください)