昭和20年2月下旬木更津基地において、連合艦隊司令部の主宰する作戦会議(沖縄戦)が、各航空部隊司令級の指揮官80余名を集め行われた。 連合艦隊主席参謀は「次期沖縄決戦では白菊を含み(初歩練習機を除く)全機特攻を行う」(趣旨のみ記述以下同じ)と説明した。誰も発言しない中、最末席の美濃部少佐は、抗命罪での死刑覚悟で「私の経験では、劣速の練習機ではグラマンの警戒線突破は不可能で、特攻の掛け声ばかりでは勝ち得ません」。色をなして怒った参謀は「必死尽忠の士が空を覆うて進撃する時、何者がこれを遮るのか。第一線の少壮指揮官の言とは思えない!」。臆病者呼ばりされた美濃部少佐は怒りを込めて「私も若い搭乗員も死を恐れる者はいません。ただ国に殉ずるには目的・意義が必要で、死して意義ある勲しを立てたい。単なる精神力の空念仏では喜び勇んで出撃出来ません。確算有る手段を立てて頂きたい」。参謀に具体策を問われ、「・・・私の部隊では飛行時間300時間の零戦パイロッツトも皆夜間洋上進撃が可能です。全員が死の覚悟で教育すれば無為にして昼間敵戦闘機群の中で徒死せしめずとも、敵に肉薄し死出の旅が飾れます」。更に列席の指揮官に「二千機の練習機を特攻に出す前に、ここに居られる指揮官達が実際に乗って攻撃して見るがよい。私は零戦一機で富士山頂で待ち受け全機撃ち落として見せます」とまで言い切った。
この結果芙蓉部隊は特攻から外され、中練の沖縄特攻は計画より除外された。
沖縄戦開始とともに零戦20機・彗星50機で鹿屋に進出し果敢な夜間攻撃を繰り広げたが、米軍の圧力はひしひしと迫り鹿屋も危険となり、他航空部隊は北九州以北に引き上げた。しかし美濃部隊長は北九州からは沖縄攻撃不可能と意見具申の結果、工夫により敵の空襲に堪え得ると判断した此処岩川(予備飛行場であった)に5月末移動した。
芙蓉部隊は敵の飛行場・艦船攻撃のみならず、特攻隊の魁・援護と大活躍をした。その原因は
①士気高い プライド・錬度高・統率 細部略
②優秀な兵器 彗星(完全整備 詳細略)、開発中の空対空(地)ロケット弾・光電管爆弾(爆発 高度設定可)・二式弾(親子弾ー開発済み)
③巧みな戦術 陽動・時間差(五月雨式)攻撃
④堅固・合理的基地
⑤訓練・後方支援の藤枝基地
⑥部内の理解者多数と地元民の絶大な協力
結 果
出撃数 延 600機
未帰還機 53機 (零戦 16 ・ 彗星 37)
戦没者 105名 (搭乗員 92名 ・ 整備員 13名)
大変遅くなりました。資料不消化ですがご勘弁を。考え方等コメントで論争されたい。
岩川詣でを指示して呉れた田中静士兄に感謝。不十分ながら大変勉強になりました。