(A) 軽巡洋艦「大淀」
三号時代の昭和18年4月の天長節の日、2ケ月前に呉工廠で竣工したばかりの新鋭軽巡洋艦
大淀が江田内に回航。見学の生徒に対して、一号のまた一号位の張り切った甲板士官の説明が
あったが、高速水偵6機を搭載でき、強力な通信設備を備えている。主砲は最上型の軽巡時代
の15.5㎝3連装砲塔2基をそのまま搭載、高角砲は最新式の九八式65口径10㎝2連装高角砲を
片舷2基づつ装備、機関出力11万馬力、速力35ノットという要目であった。そして印象に残っ
たのは高角砲砲身の異常な細長さ、巨大なる格納庫、特製の極めて長いカタパルト等であった。
しかしその後の戦局の推移と、搭載水偵の試作おくれなどで、本来の目的から外れ格納庫を司
令部施設に改造して、昭和19年5月から5ケ月間連合艦隊の旗艦なり、豊田長官坐乗のもと東京
湾に在泊していた。19年10月レイテの突入作戦では、また軽巡にもどって小沢治三郎中将率い
る囮機動部隊の空母護衛の任務に就いた。
翌20年2月呉に帰投、呉在泊中に卒業直前の74期艦船班の乗艦実習があり、格納庫内の居住
区にハンモックで泊まったことを覚えています。
74期卒業後は江田内に回航、飛渡瀬付近に係留していたが、7月末の米艦載機来襲により大
破転覆、この対空戦闘において機群指揮官として散華された三澤正幸少尉の御冥福をお祈りい
たします。
さて大淀の全貌を明確に示す写真は残されておらず、田村俊夫氏によって米国で1枚発掘され
ましたが停泊中のものです。そこで大淀の航走シーンはかくあるべし、というのが次の2枚の
写真です。
(B) 潜水母艦「長鯨」
「長鯨」は大正13年8月三菱長崎造船所で竣工、爾来永きにわたってその艦型が艦隊将兵に馴染ま
れてきたといわれます。全体が居住区を主体にしたものだけに、全通の長い端艇甲板を持つ客船型
の形状となっている。
昭和19年9月から20年にかけて呉近辺にいたが、20年6月はじめ舞鶴に回航、7月末の米艦載機
の若狭湾来襲のときは、丹後半島の伊根に停泊していたが中破の損害であった。
この対空戦闘でクラスの機銃群指揮官猶原一正、福下俊幸、安岡敏樹の各中尉が戦死された。
謹んで御冥福をお祈りいたします。
↓ 航行中の大淀(1)
↓ 航行中の大淀(2)
↓ 航行中の長鯨(1)
↓ 航行中の長鯨(1)