(旅行は3泊4日に亘り、長文となるので各日ごと4回に分けて送信します。 片桐兄の依頼
により高田 忠が送信)
第1日 4月9日(月) 快晴
旅程 1030 東京組42名(43名のところ1名が都合により急遽取止め)羽田空港に
揃う
1140 羽田空港発
1230 伊丹空港着 大阪組7名と合同
1340 伊丹空港発
1425 隠岐空港着 島後の観光に出発 バス
1450 玉若酢命神社参拝 御神木「八百杉」の大枝裂落
1555 かぶら杉
1620 白島展望台 島後の最北端
1730 隠岐ビューポートホテル着
1900~2040 夕食会 6F
1 玉若酢命神社 ― 隠岐の総社 隠岐開拓の祖神を祠る
島後に歩を印して一畑観光のバスガイド赤路さんの第一声が島根県内随一の巨杉
「八百杉」(国天然)の裂落であった 去る4月3日の大風で北側に伸びた太い最下枝
が樹幹から断裂落下しオロチのごとく地面に横たわっていた
嘉永5年建立の随身門(国重文)を覆うような八百杉であるが 裂け落ちた大枝は門
から離れる方向であったので 国重文に被害はなく 近く樹木医が来て処置する由
2 白島展望台 ― 国境いや海境
島後最北端で眼下の小島が白い絶壁(主に板状アルカリ石英粗面岩)をなしている風光
絶佳の岬である 展望台までの海を左にしての途で 「竹島161Km、対馬434Km、
国後島1366Km、尖閣諸島1503Km」 と記した立標が蒼い海を背景に著しい ここは
国境いや海境である 展望台での全員写真はガイドさんの滑稽なパホーマンスに和やか
にパッチリ 帰り途は松カサを選んで踏みしめ童子の如し
3 流人の島
後鳥羽上皇は承久の乱(1221ー5月)で同年7月から19年間 後醍醐天皇は元弘の変
(1331ー5月)で翌元弘2年3月から3年閏2月まで約1年隠岐に御在島であり 小野篁、
文覚上人など隠岐は流人の歴史が深い 宿舎までの帰途ガイドさんが「児島高徳」(大正
8年年文部省唱歌)を歌ってくれた 本当に久し振りに「船坂山や杉板と御あと慕いて院の
庄 微衷をいかで聞こえんと桜の幹に十字の詩 天勾践を空しうする莫れ 時に范蠡無き
にしも非ずーー」を耳にした 今回の旅程で黒木御所などを訪ねないことへの心遣いであろう
(続)