昭和20年6月25日、美幌航空隊にいた我々は、爽やかに晴れ上がった絶好の訓練日和にも拘わらず「本日の飛行作業中止、学生室で待機すべし」との連絡を受けていた。やがて現れた指導官附きは1枚の紙を皆に配布、それに≪特攻隊への望否、家庭の状況≫を書いて提出するようにと。
そして翌26日13:00隊長訓示、かくて43期飛行学生の中から秋水100名(含73期2名)、第1次中練特攻隊47名(73期1名)第2次中練特攻隊71名(73期2名)が決まった。6月27日には空襲警報がでて飛行機分散2カ月ぶりと記録にあるので、この日が北海道道東の初空襲を受けた日ではなかったろうか。28日にも警報が出ている。
第1次特攻隊の連中は即刻訓練開始、夜間薄暮の降爆訓練に励んでいるが、小生所属の秋水としての訓練開始は遅く7月13日となている。
以上は美幌基地での話しであり、千歳や第2美幌でも同じ日に調査決定がなされた筈。昨年故人となった久保田喬君は、特攻希望の可否について、エレクトロン的大熱望と書いたと「戦争と平和を生きた男たち」で述べている。これは当時の大方の気持ちであったと思う。
ホントに不思議だ、死すべきイノチ今あるは有り難し。
この写真は去る6月10日兄の祥月命日に参拝した時の物です。朝7時前人影まばら消えるのをを待っていました。
(以上)