2012、10、7
74期 福岡地区会諸兄
多々良 薫
久留米高女の4人の少女
福岡県の修猷館高校、明善高校、伝習館高校は幕藩時代の藩校が由来で、久留米市の旧中学
明善校が私の出身校です。明治初年に尋常中学明善校となった藩校明善堂は男女共学でした。
しかし、間もなく共学禁止令で、広いグラウンドを生垣で仕切って久留米高女を分立しました。
時は明治末年から大正の初め、4人の少女が久留米高女に入学しました。市内出身の白石さんと
佐賀県側の現鳥栖市からの古賀さんは同級生、同じ佐賀県側から楠田さん、そして久留米市外
三潴郡出身の田中さん。市内の白石さんのほかは寄宿舎に入った筈です。寄宿舎は学校から
800mほど、同じ城南町、現在は(株)ブリジストンの石橋迎賓館の場所です。女学生になった
少女たちは、長いお下げに髪を結い、黒の革靴を履き、紺の袴を翻して通学しました。
中学側のグラウンドより一段高い女学校の敷地には、昭和になると境界の生垣に沿って、2階建て
の立派な校舎が建ちました。私の明善校時代には、風紀上好ましくないとて、生垣の代わりに塀を
作り、道までが造成されていたのです。
しかし、2階建ての校舎はすぐ2~30mほど、教練で小銃を持って整列していても、体操で鉄棒に
ぶら下がっていても、窓を開けた日は彼女達の甘い声が聞こえてきました。授業時間がずれると
休み時間の彼女達のざわめきまでも。
中略
夏になると、これも何故かグランドの端に作られた25mプール、其の水泳の時間です。我々の
プールの時間が始まると、2階の窓の白いカーテンが一斉に引かれて、風に翻っていました。
それでも私達の喚声と水音は女学校の校舎に反射していたのです。
そして大東亜戦争の敗戦後には、明治初年の昔に戻って、仕切りの塀も道路も無くなり、共学の
明善高校となり、仲良く少年少女が机を並べています。
さて、大正時代、お下げを結った可愛い少女に話を戻しましょう。目出度く久留米高女を卒業した
4人の女学生の皆さんです。名門校を出た彼女たちは、誠に立派な伴侶を得られました。そして
皆さんが、晴れがましい、74期生徒の母親になられたのです。
その4人の中に、二人の恩賜卒業の母親になられた古賀さん!もうお気づきでしょう。
堀江保雄兄とその令兄72期恩賜ご卒業の堀江太郎海軍大尉のご母堂が居られたのです。
田中さんは池松裕雄君の、白石さんは井上文平君の、楠田さんは多々良 薫の、
母親に成られて、明治女性の誉れを全うされたのでした。
有り難うございました。
多々良 薫
11月11日の昼飯会で青木兄が披露してくれた多々良兄の絆物語・奇縁文です。
冊子の最終号に当たり海外居住のクラスの便りをどうしても掲載したく勝手ながら
投稿させていただきました。 文責・・・渡辺 浩